発見 幻の女性チェロ名手

南米に一時定住、情熱的スタイル掲げ36年ぶり来日へ

2010/4/28 日本経済新聞 朝刊 文化欄 掲載

日本経済新聞社の許可を得て転載

 20世紀の偉大な女性チェロ奏者と聞けば、大概の音楽ファンが、難病で音楽家生命を絶たれた英国の名手ジャクリーヌ・デュ・プレ(1945~87年)を思い出すだろう。だが人気、実力ともにそのライバルだった米国人クリスティーヌ・ワレフスカの存在を知る人は、日本にどれだけいるだろうか。

 ワレフスカはステレオLP全盛期の60~70年代、オランダの「フィリップス」レーベル(現在はユニバーサルに吸収)で、エリアフ・インバル指揮によるシューマンのチェロ協奏曲など計6点のアルバムを録音した。情熱と気品を兼ね備えた演奏スタイルと圧倒的な技巧、そして美貌(びぼう)と、三拍子そろった新人として当初から人気を博する。

偶然カリフォルニアで

 私は学生のころからアマチュアのオーケストラでチェロを弾き、チェロのレコードやCDを買って聴いてきた。チェロをこよなく愛するこの私でさえ、「あのワレフスカがまだ弾いている」とは想像もしていなかった。

 ところが2007年の暮れに仕事で渡米した際、カリフォルニア州サンタバーバラの音楽祭で「クリスティーヌ・ワレフスカ、チェロ・リサイタル」が行われることを偶然知る。急いで予定を変更し、現地の友人に車を出してもらうよう頼み、期待に胸を躍らせて演奏会場へと向かった。

 リサイタルの曲目は地元の音楽家との室内楽に加え、ベートーベンとショパンのチェロソナタなど。ワレフスカのチェロはひときわ異彩を放っていた。若いころの録音にみられる情熱的な演奏はそのままに、素晴らしい円熟の輝きを感じた。もうCDなどでしか聴けないと思っていた彼女のチェロが目の前で鳴っている。私は感動に浸った。

 終演後、気がつくと私たちは楽屋にいた。「日本から来た」というと、「まあそんな遠くから!日本には1974年に行ったきりよ、懐かしいわ」と笑顔が返ってきた。

with Christine Walevska

楽屋でクリスティーヌ・ワレフスカ(左から2人目)を囲んで。左端が筆者

アルゼンチンに拠点

 ワレフスカにも事情があった。18歳の時、アルゼンチンのブエノスアイレスのコロン劇場でデビュー。そこで大成功を収めてからは南米での仕事も増えた。何度も滞在するうちに南米の文化や人々に深く魅せられ、やがてアルゼンチンで結婚、定住するようになる。

 ビジネスが芸術に優先する欧米の音楽業界を窮屈に感じていたころだ。「南米での音楽活動は本当に自由だったわ」と本人も振り返る。フィリップスの担当ディレクターが一線を退き、契約が切れると、日本では忘れられてしまったようだ。

 48年ロサンゼルス生まれ。13歳でグレゴール・ピアティゴルスキーに、16歳でパリ音楽院のモーリス・マレシャルに師事したが、もう一人、8歳で出会ったアルゼンチンの名手、エニオ・ボロニーニがワレフスカに大きな影響を与えた。

 カザルスら当時のチェロの巨人たちから「自分よりうまい」と絶賛されたボロニーニは、幼少時、スペインの巨匠セゴビアからギターの手ほどきも受けていたという。チェロでフラメンコギターの効果を発揮するような超絶技巧曲など、自身が演奏会で弾くための作品を数多く作曲した。他のチェロ奏者が弾くのを厳しく禁じたが、ワレフスカにだけは6曲をささげた。ボロニーニの死後、門外不出だった自筆譜を引き継いだのも彼女だ。

 音楽の流れを重視し、情熱的に歌い上げる演奏スタイルは間違いなくボロニーニの衣鉢を継ぐが、現代風ではない。「今の若い音楽家たちはコンクールで勝ち上がることにとらわれ、『安全のためのテクニック』を発達させてしまった」「ハイフェッツやクライスラーなど、過去の偉大な演奏家の『心』を忘れないでほしい」と現在の音楽界の風潮に注文もつける。

演奏会実行委立ち上げ

 以前ワレフスカを日本に招聘(しょうへい)した音楽事務所は今はない。昨今の経済情勢から新たなマネジメント会社も見つけられなかった。友人らに「個人的に呼べばいい」とそそのかされ、来日演奏会実行委員会を立ち上げた。

 以後、アマチュアオーケストラ仲間を頼りに地方の主催者を募り、マイレージをかき集め、ピアノで共演する斎藤雅広さんにも2カ所の主催者を紹介してもらい、長野県飯田市や名古屋市、東京都八王子市など今年5~6月の公演を予約できた。「聴きたい人がいるところに出向き、弾けるのが何よりの幸せ」とワレフスカは話す。一人でも多くの人に彼女の演奏を聴いていただきたい。

(渡辺一騎)

ワレフスカの36年ぶり来日コンサートに寄せて

竹内貴久雄

 私が音楽を語るに際して、これまでにおそらく、たった一度しか使っていない言葉がある。「驚天動地」である。文字通り「天を驚かし、地を動かす」ということで、それほど「圧倒的に凄い」という意味だが、それを私は、かつてクリスティーヌ・ワレフスカがソロを弾くドヴォルザーク『チェロ協奏曲』の演奏評で使った。今から20年ほど前、同曲の「名盤選」の中だった。以下に引用しよう。

 クリスティチーヌ・ワレフスカ〜ギブソン盤は驚異的な演奏だ。通り過ぎようとする者をその場に留め置かずには済まさない、凄じい気迫と説得力。〈驚天動地〉とは正にこのような演奏にふさわしい言葉だ。豊麗な音がほとばしり前進するワレフスカの強靱な感情表現は、この曲が、今この場で彼女自身によって産み出されつつあるかのような一体感となって呼吸している。情緒に耽溺して引き摺るようなこともない。すばらしい表現力とテクニックを持ったチェリストであるにもかかわらず、話題にする人は少ないが、この曲のベスト盤と信じて疑わない。

 大仰とも言える言葉を思わず使ってしまったのは、私にとっては、このワレフスカのレコードとの出会いが、それほどに衝撃的だったからである。昨年の暮れに、この名盤選の文章を再録する際にも、「その後これほどに衝撃を受けた演奏には出会っていない」という趣旨を書き加えたが、ワレフスカは正に、20世紀後半を代表する驚異的なチェロ奏者だと信じて疑わない。それは彼女が、途方もなく大きな世界を内に持ちながら、それをチェロという楽器で自身の肉体の外側に放出する的確な技術を持っている稀有な演奏家だからである。

 チェロという楽器は不思議な楽器だと思うことがある。人の声の音域に最も近い楽器だという話を聞いたことがあるが、チェロがしばしば、それを弾く人の人格をとてもよく投影しているように感じるのは、それ故かも知れない。とてもヒューマンな楽器なのだ。チェロの表現力を高めて今日の音楽鑑賞の場に引き出したのは、人道主義者としても知られるカザルスだが、それは決して偶然ではないだろう。奏者が椅子に座り、包み込むようにして奏でる楽器となった時、チェロは、その豊かで包容力にあふれた音楽を宿命づけられたのかもしれない。

 だが、そうしたチェロの音楽の「大きさ」を表現できる人は少ない。ワレフスカの演奏はその数少ない例だ。大きな感情の抑揚がはじけるように飛び出してくるが、それが、明快なフォルムが崩れることなくまっすぐに届いてくることこそが、ワレフスカのチェロの本当の真価だ。

 ドヴォルザークの演奏に出会って以来、私が彼女のレコードを次々に集めたのは、実は1990年代になってからのことである。デビュー盤といわれているシューマンの協奏曲や『コル・ニドライ』『シェロモ』、プロコフィエフとハチャトゥリアンの協奏曲、サン=サーンスの協奏曲など、既にどれも廃盤だったので、ヨーロッパ各地からアメリカにまで手を広げて中古市場を探索した。それも今ではなつかしい思い出だが、特にイギリスから届いたばかりの中古レコードに針を降ろした日に聴いたハチャトゥリアンの協奏曲の強烈な印象は、私にとって特別な夜の思い出として鮮明に残っている。それは、ハチャトゥリアンの「第2チェロ協奏曲」とも言うべき『コンチェルト・ラプソディ』をコンドラシンと録音しているロストロポーヴィチの名演をも超える快演だった。

 今回、ワレフスカの演奏が忘れられなかった人々の努力によって、36年ぶりの来日が果たされると聞いた時、私は、一瞬、自分の耳を疑ったが、現実に彼女がまだ存命中で、アメリカの地で素晴らしい演奏を奏で続けていたという報告を受けて、心の底から嬉しく思った。

 音楽ビジネスが、表面をうっすらと撫でるようなものしか伝えなくなったような思いにとらわれていた私にとって、まだワレフスカの音楽が健在であったということも嬉しかった(彼女がどのようにして、この困難な時代に孤塁を守り通してきたかについては、『日本経済新聞』4月28日付の文化欄に詳しい)が、それ以上に嬉しいのは、ワレフスカのコンサートを実現しようというファンの努力が実を結んでの来日公演だということである。通常の音楽ビジネスの外から、真摯な愛好家の力によって実現したこのコンサートは、「常識にとらわれない無謀な企てこそが、いつも歴史を動かしてきた」と信じている私にとって、何よりも嬉しいことである。

(2010.5.14)

東京・上野公演のパンフレット 2ページ「ごあいさつ」より再掲

エニオ・ボロニーニの思い出

エニオ・ボロニーニの思い出は私にとってラスベガスの思い出でもある。最初の出会いは1967年の夏、私が彼の地で仕事(ホテルのショールームオーケストラで弾く) をするようになって間もなくだが、個人的な付き合いは1968年4月、彼が主宰/指揮していた、Las Vegas Philharmonic Orchestraの主席チェロに私を選んだ時に始まった。しかしこのオーケストラ(1963年創立)は私が弾いたこのコンサートが最後となり、同じ1968年、指揮者レオ・ダミアーニの下、新しく組織されたLas Vegas Symphonyに席を譲ることになる。エニオは主席チェロに迎えられ私は隣でアシスタントだった。実はこの新しいオーケストラも5年目には解消してしまう。

オーケストラといっても年間4、5回の定期演奏だけで、メンバーは普段は市内の数あるホテルのショールームで弾いていた。ボロニーニの本拠はシーザースパレスだった。そのスターの一人、トニー・ベネットはエニオがお気に入りで彼をオーケストラスタンドからステージの真ん中に引っ張りだしソロを弾かせるほどだった。既に70歳を超えていたが贅肉はまったくなく引き締まった体躯、ハンサムで騎士的風貌と相まって彼の存在はどこにいても際立っていた。昔はボクサーだったと言うあの大きな手、長い見事な指、理想的なチェロ弾きの手、いやそれ以上だったかもしれない。レーサーだったし飛行士でもあった彼、後年は視力が許さなかったが車の運転も、私が会った当初はポンコツに近い古い大型のオープンカーに裸のチェロを後ろの座席にポンと投げ入れ、船乗りがかぶるセーラーハットで炎天下のラスベガスを乗り回していた。

私は彼に呼ばれてよく自宅に出入りした。彼が自作曲の整理保存をする際の手助けだった。彼は年とともに視力の衰えを嘆いていた。もっともオケで弾くときも譜面は見ておらず、それどころかたとえばリハーサルでフルートが落ちたとすると、即座に彼はフルートパートをチェロで弾くという有り様だった。私の役は彼の新作を記譜することだった。まず持っていったカセットテープで彼の演奏を録る、それを家に帰って譜面に移し翌日彼の家に戻って今度は私がそれを弾いてみるという段取りだった。ところが二度と同じ様には弾かない彼は再三変えてしまう。自分が前の日にどう弾いたかは忘れてしまっている。改めてテープを録る、そんな事を何度も繰り返したのだった。家には大きな電子オルガン(Conn)がありそれをオーケストラを指揮するかの様に弾き、オペラのレコードをかけてはオペラ歌手顔負けの見事なディープバリトンで歌っていた。

今や有名になってしまった彼の著名人のサイン入りチェロ(注:ワシントンのスミソニアン博物館が所蔵)は別として他のチェロや弓にはむしろ無頓着だった。所謂イタリア名器ではないごく普通のチェロをあれだけ鳴らしてしまう、まさに「弘法筆を選ばず」である。今でも耳に残っているのは彼が友人のメモリアル(追悼)で弾いたコルニドライだ。無伴奏で自身のアレンジによるかのユダヤ教の聖なるメロディーはオルガンの如く響き渡り、参列者の心を締めつけ揺さぶるのだった。彼の演奏を最後に聞いたのは1978年ロサンゼルス市外、ダウニーのコミュニティー・オーケストラで彼がラロのコンチェルトを弾いた時だ。例によって譜面どうリには弾かない。さすがに80歳を越え衰えは見られたものの、即興のカデンツ入りで弾き終わると聴衆のスタンディングオベーションが延々と続いた。

ラスベガスはその当時フリーランサーのメッカだった。ボロニーニの他にもずば抜けた才能の持ち主が何人かいた。それぞれありきたりの仕事には収まらない連中だ。私はシナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デイヴィスJr. 等が出演するサンズホテルで弾いていた。ある夜、ショーを弾き終わってシーザースにエニオを訪ねた事がある。すでに人気の少なくなったカシノのスロットマシンに彼がコインを入れては話しかけている、“MAKE A MISTAKE, MAKE A MISTAKE!”と。ギャンブルも含めて彼は人生をフル回転で生き抜いた。有り余る才能は制御しかねた。プラクティカルジョーカーだったエニオ、通常の音楽社会の枠からはみ出てしまった彼、ボロニーニは言ってみれば在野の剣豪でドンキホーテだった。私は彼の自由奔放且つ決して媚びる事のない生き方に強烈な印象を受けた。そしてなによりもボロニーニの暖かい人間性、寛大さ、忠実さ、誠実さに触れ包まれて過ごした貴重な日々を持つことが出来た。それは音楽を「生きる」ということのレッスンでもあった。ラスベガスは私にエニオという稀有な才能に出会うチャンスを与えてくれた。彼の思い出は、今のラスベガスからは想像出来ないかつての良き時代のべガスの思い出とともに一生忘れ得ないであろう。

2010年3月 Masatoshi Mitsumoto

 

《著者紹介》

三本雅俊(チェロ、指揮、作曲)東京芸術大学卒業。フランスでトルトゥリエ、アメリカでピアティゴルスキーに師事。1966年よりアメリカ在住。

訳書にヴィクター・セイザー著、『新しいチェロ奏法』(音楽之友社刊)がある。


チェロの王者、エニオ・ボロニーニとワレフスカ

“ボロニーニ! チェロにかけては私が今までに聴いた中で最高の才能の持ち主だ!”
- パブロ・カザルス(*)

“賭けてもいいが、世界でいちばん凄いチェリストは、カザルスでもピィアティゴルスキー でも、私でもない。ボロニーニだ!”
- エマニュエル・フォイヤマン(*)

“いえ、ボロニーニがいます。”
(アメリカでいま一番のチェリストはあなたですね? との問いに対して)
- グレゴール・ピィアティゴルスキー

今なおチェロの神様とあがめられる、当代きっての名手達がこぞって絶賛した、このボロニーニというチェリストはどんな人物だったのでしょう?

ボクシングの南米ウェルター級チャンピオン、スタント飛行のパイロット、オープンカーを乗り回し、美食家でギャンブラー。6カ国語を話し、指揮、作曲を行い、野球のミットのように大きな手でギター、ピアノもこなす。驚くべき技巧と輝くようなチェロの音。

ボロニーニが生涯で唯一録音したLPアルバムは、彼が自身の演奏会のために作曲した超絶技巧の曲が何曲も含まれており(メロディックな曲の美しさもすばらしいのですが![注:実行委員会メンバー])、当時は大変な話題となりましたが、今では伝説のレコードとしてマニアの間に知られているようです。

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「間違いなく、彼は世界最高、史上最高のチェリストでした。」

とワレフスカさんはインタビューで述べています。彼女は父親にチェロの手ほどきを受けた後、8才の時にボロニーニに会い、その後師事しています。

幼いワレフスカが初めて彼の前で演奏した時、両親が心配して「この子にチェロの才能はあるだろうか?」と聞くと、ボロニーニは「彼女はすでに立派なチェリストだ!」と答えたそうです。

その後ボロニーニはワレフスカを娘のように可愛がり(ボロニーニには子供がなく、またワレフスカも十代で父を亡くしている)、自分の持てる全てを彼女に教え込んだのです。その気高く情熱的な音、そしてギターの神様セゴビアから学んだというあのピツィカート奏法は、見事に弟子のワレフスカさんに継承されています。

また、自作の超絶技巧曲が全米で人気を博したにもかかわらず、彼はそれらを出版しなかったので、ピアティゴルスキーやシュタルケルなどが再三「楽譜を見せてくれ」と頼みに来たそうです。しかしボロニーニはそれらを決して他人に見せることはしませんでした。そして後年、「お前だけがこの曲を弾くように。決して他の人には渡してはいけない。」と言い、全ての楽譜をワレフスカに託したといいます。

今回の来日ツアーでは、私たち実行委員会のたっての願いにより、「一子相伝」のボロニーニの小品がワレフスカさんによって演奏される予定です。

 

(*) マーガレット・キャンベル 著、山田玲子 訳「名チェリストたち」(1994年 東京創元社)より引用

ボロニーニについては、上記の「名チェリストたち」 にかなり詳しい記述があります。残念ながら今は絶版のようなので図書館などを当たってみると読むことができるかも知れません。

ワレフスカさん来日の経緯

クリスティーヌ・ワレフスカ(Christine Walevska)さんは、欧米ではロストロポーヴィチやシュタルケル等と並び称される、巨匠として評価されています。またジャクリーヌ・デュプレとは同世代であったために、たびたび比較されることもあったようです。1974年には日本でも演奏会を行っています。

彼女は、営利を追求するアメリカのショービジネスを嫌い、1980年代からアルゼンチンのブエノスアイレスに住み、中南米を中心に活動していました。そのため、日本では彼女についての情報が伝えられることはありませんでした。

私たちは、一昨年の暮れにアメリカ・カルフォルニア州で開催された彼女のリサイタルを聴き、その演奏に感激し、以来連絡を取り続けて参りました。再び日本で演奏会をして頂けるようにお願いしておりましたが、1974年に招聘を行った音楽事務所は今すでになく、日本での正式な窓口がない状態でした。

そこで今回、私たちが直接彼女に交渉を行い、来日してチェロを弾いて頂くようにお願いをすることを決意したのです。最初の交渉から1年。その間に世界経済は急速に悪化してしまいました。コンサートホールや企業からの協賛が得られる見込みが全くないまま、どんどん月日は流れていきます。もうこれ以上待っても時間の無駄、予算の不足は熱意でカバーする意気込みで、多くの音楽ファンやチェロ好きの方の協力を得て、ついに企画が始動しました。

お陰様で多方面より問い合わせを頂き、多くの方のご協力でいくつかの演奏会が確定しております。引き続き、この企画にご賛同される方(協賛、後援、どんな形でも構いません)はぜひこちらまでご連絡下さい。とくに地方都市での演奏会を主催して頂ける方を募集しております。

どうぞよろしくお願いいたします。

ワレフスカ来日演奏会実行委員会